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・アメリカ乱入事始め/山下洋輔著 第四章その1

第四章 カンザスシティ篇

打率十割、乱入続行中

 やがてハイウェイの前方に、夕空を背景に高層ビルのシルエットが見えて来た。どんどんと近づき、その街に入り、ぐるぐる回ってホテルにたどり着く。七時半にホテル「フィリップハウス」着だから、セントルイスから五時間のドライブだ。
 アンティックな感じのするホテルのエレベーターに乗ると、バーのバンドの案内があり、「毎土曜日はジャムセッション」などとも書いてある。さすがに、ニューオリンズに対抗してジャズへの貢献の歴史を誇る街だけの事はある。チャーリー・パーカー、カウント・ベイシー、ジェイ・マクシャンたちのゆかりの地だ。たしか、オーネット・コールマンもそうじゃなかったかと思うが、まだホテルの宴会場の名前にはなっていなかった。
 前出の三人は、この街最大のホテルのパーティルームの名前になっていたのだ。翌日「チャーリー・パーカー・メモリアル・ファンデーション」のレセプションに出かけて分かった事なのだが、「カウント・ベイシーの間」「チャーリー・パーカーの間」「ジェイ・マクシャンの間」とロビーのボードに書いてあったのを見た時には、驚き、笑い、感心したのだ。これはまあ先の話で、今はまずメシということになる。地下のステーキハウスで皆と落ち合う。アキ天草とリチャードはどこかへ出かけてしまったが、当然この街の接触者に連絡をつけたり、乱入状況の視察に行ったりしているのに違いない。
 でかいステーキは馬鹿うまかった。さすがのテディ鴻上も「これ、おいしいいい」とわめいた程だ。「カンサスの硝煙」「カンサス無宿」などという本当にあったかどうだかもはや定かでない西部劇映画にかならず出て来たあのウシ、を、今食っているのだという実感に浸りつつ、むさぼり食ってしまった。
 部屋にかえり、少し休む。応接間つきの大きな部屋だ。明日のレセプションに着て行くよう磯プロからサジェストされて日本から持って来ていた羽織袴を取り出し、応接間のソファに放りかけておく。「筒井康隆大一座」で「ジーザス・クライスト・トリックスター」をやったときに着た衣装だ。多分、百万円以上はする。演出の川和さんに、これこれのお店に行って名前を言いなさい、と言われ、その「鈴乃屋」さんへ行って作ってもらったもので、芝居がおわっても、そのまま持っていなさいというお言葉にあまえてずっと預かっていたのだが、こういう風に使わせてもらうことについては、事前にお断りをしていない。事後承諾だが、ここに謹んで「衣装協力...筒井康隆大一座。衣装提供...鈴乃屋」のテロップを流させていただきたい。
 さて、この伝統のカンザスでは、どのような乱入体験をするのだろう、と、若干不安になっている。というのもそろそろ「初旅のキチガイ興奮状態」が覚めて来て、第一期反省記に入る可能性のある時期だからだ。それにここでは、昔ベイシーとやったなどという人が沢山いるから、そういう人に集まってもらってパンジャ・スイングオーケストラ風フルバンドをやろうなどという計画もあった。譜面は無事にホテルに届いていたが、さて、どのようにするか問題があるのは、前に書いた通りだ。これまでの実地乱入体験に照らすと、どうも譜面の出番は無さそうだという気はするのだった。
 これまで一体何度の乱入をしたのか、あらためてふり返ってみると、
 八月十四日 ニューオリンズ。「スナッグ・ハーバー」カルテット。
 八月十五日 ニューオリンズ。昼間ドイツバー「フリッツェル」。夜「スナッグ・ハーバー」でスヌークとっつぁんバンド。
 八月十六日 夜「ストーリーヴィル」アダムスとっつあんバンド。
 八月十七日 一日中、死に。
 八月十八日 セントルイス。「シセロ」ピーターバンド。一曲。
 八月十九日 セントルイス。田舎ディスコ。「バスティーユ」一曲。裏の宴会場で、「ボレロ」。
 というわけで、最初の「仕事」を除いても、六日間に六回、打率十割という結果が出ていた。ま、徐々に打率が下がっていくのが普通だから最終的には、三、四割に落ち着くのではないかと思っていたのだが、さにあらず、今日も明日もヒット、じゃなかった、乱入が続き、三日後にはとうとう、「一日に五回乱入」という、猛打賞か、はたまた、「淫獣強姦魔狂気の連続レイプ・癖になった私」的状態に達する。この時点では何と十日で十六回という淫行回数を数えた。つまり、十打数十六安打、打率十六割、という細胞破裂アヴェレージを記録することになるのだった。
 夜十一時三十分、ロビーで地元関係者と合流する。こういう時間帯から活動を開始するという業界的に正しい生活態度が確立されている。
 このコネクターは、やはり白人レコード店主のチャックだった。どことなくキョウキをたたえた若い三日月眼の金髪男だ。一緒にいたのがスピーディと呼ばれる、老黒人ドラマーで、威厳と優しさを兼ね備えた長老格の人物だった。どこへ行ってもこの人を見ると皆が、「スピーディ」と呼びかけて挨拶をするという光景を見ることになる。もう一人はジャズピアノを弾くという顎髭の白人男で、この人とチャックはどうやら若干「ストーン」であるような気配だった。別に石を投げつけられてフラフラになっているのではなく、別の原因で良い気持ちになっているという意味だから、そこんところ各自よろしく推測するように。
 車で走ると、大変活気のある街であることが分かった。つまり、夜中になってもゴーストタウン化せずあちこちで店が開いているという事だ。
 連れて行かれた場所は「グランド・エンポリウム」というクラブだった。結構広く、壁にポスターなどはりめぐらしてある雰囲気のある場所で、つきあたりのステージに、ドラム、ベース、ピアノ、サックスのカルテットがいて、スイングとモダンの中間あたりの音をだしている。つまり、ドラムセットのバスドラムなどはあくまでもでかく昔風でリズムもきちんとした立て割りだが、ベースランニングとサックスのフレーズには時おりバップの香りが混ざるというわけだ。
 やがて、歌手のオバサマが出て来た。黒い肌に黒いドレスのスラリとした体つきだが、その顔、表情、態度物腰から、この世界での長い長い年月がにじみ出して来るような人だった。バックのバンドのわきまえ切った伴奏と共に、こりゃあちょっとうかつな態度では接しられないという「ブルースの世界」がそこに響きわたった。
プリシラ・ボウマンというこの歌の方は、かつてジェイ・マクシャン・バンドの専属歌手で、シングル・レコードをヒットさせた事もある、と後で聞くのだが、やはりそうだったのか、なのだ。すぐそばの客に歌いながらほほ笑みかけ、うなずき、別の瞬間には、二千人のホールの三階席のてっぺんまで届くまなざしを宙に投げかける。こび、笑い、泣き、年老い、同時に若く、愚痴かと思うと、挑戦であり、絶望したかと思うと威厳と共によみがえる。とまあそれらすべてを自然に見せながら歌を歌って人前にちゃんと立っているという、恐るべき術を体得しているのだった。

日本人ジャズファン、マサさん登場

 こういう所に対しても、乱入の原則は否応なく適用される。根回しも充分だったから、次のセットにどんどん出て行って、「早いブルース」、「バイバイ・ブラックバード」、「ウィロウ・ウィープ・フォー・ミー」の三曲をやった。
 ピアノは中音部から上の音のほとんどが鳴らないという極悪コンディションで、弾けども弾けども隔靴掻痒的演奏となった。ま、ピアノのコンディションだけではなく、「ここに乱入していいのかなあ」という、ドレイにあるまじき無益な反省のココロが生じたせいも勿論あった。
 バンマス格のベースのとっつあんも、どちらかといえば、「コマッタナアー」的につき合ってくれていた。この首から長い金鎖をたらし、いつもパイプをくゆらす、ポール・チェンバースが長生きしたような顔の人は、後日入りびたることになる、カンザスシティの伝統ある「ミューチュアル・ミュージシャンズ・ファンデーション」の副会長兼世話焼き係という地位の人だったから、そのへんの立場上からも、いきなり黄色乱入者をどう扱うか、測りかねていたのかも知れない。後に、明け方までのジャムセッションをやり、お互い汗ダクとなり、何度目かに、「さあやろう」と言うと、「いやだよ」と言いつつベースを構えてニヤリと笑う、というようなやや複雑屈折的反応を示す人でもあった。
 そのようなことだったのだが、ま、弾いている最中に若干の歓声と拍手はあり、終わってからは、聴いていた連中から、「パーフェクト」と言われたり、「今弾いていたのはお前か、姿が見えなかったが、よかった」などとわざわざ言いに来る奴もいた。しかし、自らはどこか納得出来ない時間なのだった。
 この人たちの、そう何度も無いかもしれない貴重な集まりの瞬間を、「遠方からの珍客」という特権で邪魔をし、乱しているのかも知れないなどと思ったりする。ニューオリンズでもセントルイスでも感じなかったこのようなオビエがこのカンザスの最初の晩に、生じてきていた。
 今朝までいたセントルイスでくっついたブルース菌が、プリシラおばさまの歌に反応して、一挙に脳内蔓延現象を起こしたのに違いない。
 眼鏡痩身で明るい態度の、そのバンドのピアノ弾きと、バンドのたまり場らしい壁ぎわのベンチに並んで座り、話す。名刺をくれ、本職は楽器屋に勤めているのだと言う。住んでいる所が、河向こうのカンザスで、同じ名前だがこことは違う街で、どちらかが、ただの「カンザス」で、どちらかが「カンザスシティ」なのだ、などと説明をしてくれる。話す言葉のワンフレーズごとにハハハと笑う陽気な人だ。
 「お前は基礎があるから、よそで出来る。他でもジャムセッションをやっているから、そっちへ行くとよい」と言う。「ここはお前の来る所ではない」という言葉の、二重の意味が分かる日でもあった。この時に、「そうか、結局、皆こうして追い出されたんじゃねえかなあ」という考えが頭に浮かんだのだった。
 「あ、お前、そういうことやる奴なら、あっちへ行けよ」
 「ここにいたってしょうがねえよ」
 「お前のいる場所はこの街にはねえよ」
 「ニューヨークに行けば、同じ様な奴がいるんじゃねえか」
 チャーリー・パーカーもオーネット・コールマンもこの言葉を聴いたのではないかという一瞬の妄想さえ湧き上がる。
 このようだから、最後のプリシラおばさまの歌がまたひときわ響いた。案内人のチャックは目をとじ、聴き入り、感にたえたように何か言い、それから涙を流しはじめた。テーブルの間をあるきながら歌っていたプリシラが、何ともいえない優しく、あたたかかく、同時に涙が一杯つまっているようなブルース声で、「泣いては駄目よ」という言葉をチャックに向けて歌った。
 全部終わってから初めて、プリシラおばさまに挨拶に行った。
 「邪魔してごめんなさい」
 「いいのよ。ありがとう」
 暖かい掌で、おれの手を包んでくれた。
 天草生田が本人から聞いたところでは、おれが弾いている時に、歌いに出て行ってよいものかどうか分からず、遠慮していた、という事だった。ま、皆に大事にされている人が、そうホイホイとわけの分からぬ異邦人ピアノとブルースが出来るものではない、というのがその場の流れだったのだろう。
 ところで、おれがステージにいる間に、偶然入って来た当街在住日本人がいた。
 「わ、何でここにヤマシタさんがいるんですかあ。ウソみたいだああ」
 と、わめきながら現れたというその人は、通称マサさんというコックさんだった。ジャズ狂いが昂じて日本を飛び出した人らしい。
 何だか非常にナツカシく、磯プロと二人で誘われるままにどんどんマサさんの車に乗って、お宅へと乱入する事になってしまった。
 車で走りながら、マサさんは興奮気味の早口で色々な事を口走る。ここのブルースも良いが、シカゴに行くと本当に物凄いのが聴けることや、さっきのオバサマよりもっと声がでかく迫力ある人達が、黒人居住地内の教会にはごろごろ居る、などとも言う。そのうち、「こっちにずっといて、ひとあたり聴くと、結局日本人のジャズを聴きたくなってねえ」などと、すぐその場で勲章を授与したくなるような事を言い出した。
 「そんなものかねえ」
 「そうですよ。不思議な事に、英語の歌まで日本人のを聴きたくなる」
 「へえ」
 「変でしょう」
 「変だねえ」
 「でも、そっちの方がいいんですよね。感覚が同じだし、大体こっちの奴らよりうまいんじゃないかな」
 「そうかねえ」
 「そうですよ。ほらほらほら、これ聴いてみて」
 いきなり車のカセットデッキから、歌が流れだし、それはさる「実力派」日本人女ジャズ歌手のレコードだった。
 「ねっ、いいでしょ。こういう方がもう今はいいんですよね」
 これが正常的反応なのか、或いは、一回転して変態の域になっているのかよく分からぬままに、その音は仲々良く響き、一瞬、ジャズのシンプルな真理を垣間見せつつ、車は深夜のカンザスシティを走っていくのだった。
 マサさんのアパートはそんなに広くはないが、ジュウタンが敷きつめてあって、靴を脱いで転がり込めるアットホームなものだった。「酒を持って来ます」と言って出て行き、しばらくしてビール、ワイン、ウォッカなどのビンを片手に抱えて戻って来る。隣の部屋の留守の友達の部屋から持って来た、ということで、つまりは強奪だが、その友達というのが何国人だか男だか、女だかも今に至るまで判明していない。その幻の「トモダチ」に感謝しつつ、ビールをベースにウォッカ、ワインと飲みまくった。ドイツのアル中の飲み方だが、「バンド飲み」などと勝手に名づけて勝手に実行しているのだ。
 マサさんの日本人ジャズマンびいきはなおも続き、ここでも渡辺貞夫の一九七〇年の作「パストラル」や「ライブ・アット・ジャンク」などというものをかけまくってくれた。
 「チャーリー・パーカー・メモリアル・ファンデーション」の記念コンサートが明日行われるというその晩にそのカンザスシティで渡辺貞夫を聴く、というのも得がたい体験で、これにはさすがの磯プロの「わし、あまり容易には物事を面白がらんけんね顔」も、ややくずれ、両目と口が横に広がって、「でへでへでへ」などと喜びの表情らしきものを表すのだった。
 マサさんの実家は、有楽町駅から東京駅に向かった所のガード下にある名物ラーメン屋さんだという。こちらでは、「ジャパニーズ・スタイル」として定着したあの、客の目の前で包丁その他をたくみに操って鉄板の上でステーキを焼くレストランで、人気料理パフォーマーとして頑張っているのだ。その華麗かつ過激な包丁技には、二日後に接することになる。

ようやく受け取ったジャズからの返事

 翌、八月二十一日。昼にチャックのレコード店に行く。大きな立派な店で、地下の倉庫にはゴマン枚のジャズレコードが保管されてあった。ジャズレコードマニアならヨダレをたらしてそこらを這いずり回り、三、七、二十一日間外で出てこないだろうが、一行の中にそういう者は居ないようだった。かわりにブロマイドの絵葉書をいくつか買った。ビリー・ホリデイがでかいボクサー犬を抱いているものや、デューク・エリントンがスーザホンやら何やら体に巻きつけられて、困ったように笑っているものがあった。こんな凄い人に平気でチンドン屋の格好をさせてしまうというのは、いつもながら一体どういう料簡の国なのだ。
 やがて、チャックの先導する車について走り、行きついた所が、ジョージ・サルスベリ氏宅だった。バップ時代のピアニストでチャーリ・パーカーたちとやっていたという長老だ。居間に案内され、ソファに座る。サルスベリ氏はプロフェッサーともドクターとも呼ばれている物静かな人だが、奥さんは小柄で活発な、いまだにバップ時代の不良少女の面影を残す人だった。ワインやらタバコをやりながら、ニコニコし、
 「チャーリー・パーカーともよく遊び回ったものよ」などというタマラないことをおっしゃる。
 チャックのやや興奮気味かつ熱心かつ丁寧な勧めで、サルスベリ氏は、おれの演奏を一曲聴くことになった。アップライトピアノに座って、「ラウンド・ミッドナイト」をやった。ピアノから離れる前に「もう一度やれ」という言葉が、サルスベリ氏から発せられた。「仙波山」をあまり遠慮せずに弾きまくった。皆が拍手をし、見るとサルスベリ氏も手を叩いていて、これは後でチャックが何度も強調するところによれば、非常に珍しい光景だったのだそうだ。さらにチャックを驚かせたのが、サルスベリ氏の行動だった。
 椅子から立つのも歩くのも不自由そうな体をゆっくりピアノの前へと運び、今おれが離れたばかりの椅子に座ったのだ。
 ゆったりとした和音が響き、やがてその中から、メロディが立ち昇ってくる。曲の名前が分かるのがうれしかった。その曲のタイトルは「インヴィテーション」だったのだ。
 無意識の選曲だったのかも知れないにしろ、部屋じゅうにしみ込んでいくその何の誇張もない真摯な音々から、「よく来たな」というジャズからの返事をようやく受け取ったような気がして、しばらくぼんやりとした時間を味わっていた。
 弾き終わり、「しばらく弾いてなかったのだ」というようなつぶやきと共に、サルスベリ氏は再びゆっくりと体を運んで自分の椅子へと戻った。チャックは目をうるませている。
 やがてまた雑談となり、今夜この街で行われるジャズイヴェントの話題となった。磯プロが入手した招待状があって、なんでもここのミュージックホールで、ジャズフェスティバルが行われ、そこで「名声の殿堂」入りとして選ばれたプレイヤーたちが表彰されたり、コンサートの前にはディナーパーティがあってそこでプレイヤーたちと親しくオハナシが出来たりという趣向になっている。ただし、それらのチケット代は非常に高価で、まず普通のジャズファンは怒るかあきれて来やしないというシロモノらしい。「チャーリー・パーカー・メモリアル・ファンデーション」というものも今回初めて出来たのだそうで、市がらみでジャズシティのイメージを打ちだそうという市政もからんだ計画らしく、こういう時の「地元」関係者のからみ方は複雑だ。
 サルスベリ氏は参加するのかと聞くと、頼まれたがしない、との事で、体の調子もあるが、ちゃんとしたメインステージ扱いをするのではないからだということらしい。つまりは「前座」あつかいということか。出演メンバーは、カウント・ベイシー、ウディ・ハーマン両オーケストラ、エラ・フィッツジェラルド、ディジー・ガレスピ、マックス・ローチ、クラーク・テリーなどとなっている。これらの人びとが演奏もしに来て表彰を受ける、他にはロイ・エルドリッジ、ベニー・グッドマン、フレディー・グリーン、ジョー・ジョーンズ、などの名があがっており、故人では、サッチモ、エリントン、ボビー・ハケット、アート・テイタム、メリー・ルー・ウィリアムスらが殿堂入りだ。
 ところが来る筈の者が来ない、行ける筈の所へ行けない、というのもこの業界の常であって、実は昨日の段階で、既にエラが来られないということがリチャードには分かっていた。
 そこでこの男が何をしたかというと、それなら代わりにってんで、いきなり、このおれを、出せ、と売り込んだのだ。どうせ乱入だから基本的考えは同じで、所選ばずのダメモト精神が一貫している。それに対する今日になってからの相手からの返事が面白かった。「ヤマシタの出演する可能性は、今のところ八パーセント」というものだった。「八パーセント」というのは、〇・〇八、つまり、〇割八分〇厘だ。まず料簡が測り難い。多分、前記の連中が全部駄目な場合、在カンザスのミュージシャンが序列に従って選ばれ、その連中がまた全員逃げたあたりで初めて十パーセント位の可能性となるということか。人の世の事だから、そういう事も絶対に起きないわけではない。そこで極安掛け捨て保険として、八パーセントプレイヤーの存在も可能となった、とこのようなことに違いない。
 やがて、奥さんの勧めで、台所のテーブルに座り、手づくりのソウルフッドをご馳走になる。チキンと白身魚のフライと、フレンチフライドポテトで、いやあ、これはうまかった。天草のアドヴァイスを参考にする間もなくうまいうまいとぺろぺろ食べてしまった。
 「これはおいしかった、ねえ、テディ鴻上」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 「どうしたのかな」
 「ヨースケさん。ぼくがここ、つまり、ジョージ・サルスベリさんのお宅に一緒に伺っているかどうか、記憶は確かですか」
 「やはり君も疑問に感じていたのか。いや、おれもここまで来て、丁度メシだから君と何か軽い会話をすることによって、少し進行を楽にしたかったのだ。ところが、話し掛けようとして、果たして君と北さんがここに実際居たのかどうかサダカでないことに気がついた」
 「それで試しに呼び掛けてみて、返事をしたらもうけものだという計画を急に思いついたと」
 「すまんすまん。ま、そういうわけで、ま、君は返事をしたわけだから、一応そこに居るという事になるね」
 「何を言っているんですか。ぼくは、居る、と返事をしたのではないでんですよ。ほんとに居るかどうか確かなのか、と聞いたんですからね。ちゃんと居たものなら、今後の会話もまた変わってくるし、これは一度磯田さんに聞いてみたらどうですか。金もうけは下手だけど、記憶力は良い人ですからね」
 「そんなことぐらいもうしたよ」
 「ほうほう、そうですか。それで?」
 「留守でつかまらないんだ。キティ事務所に電話したんだけど居なかったんだよ。 また外にフラフラ出て行って、金のもうからない方法でも考えているんだろう」
 「ええ? じゃあ、調査結果をまたずにこの会話を始めてしまったというんですか」
 「仕方ねえだろう。『エンマ』から七回で降りて、あとえらい量を書き下ろさなきゃなんねえんだ。帰りを待っている時間も惜しいんだよ」
 「ひどいなあ。そんな事で出されて、ぼくの立場はどうなるんですかあ」
 「たのむよ、コーちゃん。おこらないでこのまま出てて、お願い」
 「そんなあ、ひどいよねえ、北さん」
 「・・・・・・・・・・・・・・」
 「だめだめだめ、北さんだって自分がそこに居るか居ないか分からないのに返事のしようがないじゃないか、ねえ北さん。痛てててて。北さん殴らなくてもいいだろ」
 「うるさいなあもう。自分で、話し掛けたってだめだと言っておいてなんだよ、これ以上ややこしい事に巻き込まないでよ。もう」
 「おお痛てててて」
 「あ、待って待って。分かりました、分かりました」
 「磯田さん、どうしたのお、今頃になって。遅いじゃないの。ヨースケさん左目の回りに青アザ作っちゃたよ」
 「ええ、分かりました。この日、鴻上、北島、磯田の三人は、サルスベリ先生のお宅にはお邪魔しておりません」
 「そうか、どうも記憶があいまいだと思った。あのチキンを食ったら、鴻上が何か言わない筈がないのに、いくら考えても思い出せないんだ。居なかったのなら当然だな。それにしてもどうして三人は来なかったのかな」
 「事前の話で、サルスベリ先生は、非常にナーヴァスな方だから、一度に大人数でどやどやと押しかけて機嫌を損ねては大変だ、ということがありまして、それでチャック、オコン、イクタ以外は遠慮したというわけです」
 「そんなに大変な人だったのか。しかしまあ、お陰で素晴らしい午後が過ごせてよかった。真相も判明したし、じゃあもういいよ」
 「え、いい、何がいいんですか」
 「もうどっかへ行ってもいいよ。どうせホテルの部屋でバクチやってたんだろう」
 「そりゃ、もうこの三人組は『キャッツアイ』キチガイですよ。でも、その最中にわけも分からず呼び出されたんだ。もういいよ、はないでしょうが」
 「うるさいなあ。真相が分かったんだから、君たちはこうここに居なくてもいいんだよ」
 「そんな勝手な。仕方ないなあ。じゃ、行きますよ。行きますから、その前に折角だからそのチキンと魚のフライをちょっとつまんで」
 「だめだめだめ、鴻上が食うとまた何だかんだと感想を述べて長くなるんだよ」
 「当然じゃないですか。日の出の勢いの天才劇作家ですよ、カンザスシティの長老ジャズピアニスト宅で、チャーリー・パーカーとも遊んだ、などとおっしゃる奥方の手作りのソウルフッドを頂いて、瞬時に天才的な言葉で感想を述べるのは当たり前じゃないですか」
 「しかし、実際君はそこに居なかった。だから何の感想も述べられないのだ」
 「だから、それを書くのがヨースケさんの役割でしょうが」
 「うるせえ、おれは想像で何か書く事が出来ねえんだ。さあさあもう覚悟して、さっさと消えちまってくれ」
 「そんなひどい。せめてそのチキンを一きれ食べさせてよう」
 「それを食わせると、あとが面倒だといってるんだよ。さあさあ、じゃこれで。またあとで」
 「あ、ひどいひどい。これはひどいよう。磯田さん何か言ってやって下」
 というようなわけで、大変よい気持ちでサルスベリ家を辞したのだった。

手垢にまみれた化石ピアノに触れる

 このあとは、ホテル近辺で、「羽織袴」のフォトセッションという面妖なものを行う予定があるが、少し時間があり、この街の由緒あるジャズメンクラブに立ち寄ることにする。いずれそこでジャムセッションをやることになるミュージシャンのたまり場だ。
 街の中心から少しはずれた所で、周りはブラックネイバーフッド、つまり黒人居住区だった。柱やポーチのある一軒家が立ち並び住宅地となっている。所どころに教会がある。
 クラブのすぐ近くの四つ角にチャックは車を止めた。この一帯がかつて不夜城として栄えた場所らしい。モグリ酒場が立ち並び、通りにはジャズメンが溢れていた筈の所だ。「ヴァインストリート」という標識があった。今は誰も歩いていないその四つ角を通り過ぎ、店も何もない裏通りに入ると、その「ミューチュアル・ミュージシャンズ・ファンデーション」の建物があった。今は誰も歩いていないその四つ角を通り過ぎ、店も何もない裏通りに入ると、その「ミューチュアル・ミュージシャンズ・ファンデーション」の建物があった。近年改築したとかで、比較的新しい、入口の前の道路に埋めこまれた「1929」という数字が彫ってある鉄板も新しい。ずっとほっておかれたものが再建されたということらしいのだ。
 しかし、1929年などという年代が出て来ると、やはりここで、その頃のカンザスシティがどうなっていたのだ、という興味が沸き起こってくる。幸いここに、油井正一著「増訂ジャズの歴史」十一版1971年、という名著があるから、全面的にこれに助けていただくしかないのだが、えっと、
 「あ、鴻上君、鴻上君」
 「またあ、もういい加減にして下さいよ」
 「何しろ、日の出の勢いの劇作家を好きな時に呼び出せるという手法をおぼえてしまったからね、癖になって」
 「癖にならないでよ。そういうことは」
 「そう怒らないで、ね、コーちゃん、どうせバクチ負けて少し抜けたいだろう」
 「ったくもう。何をさせようというのですか」
 「ただそこで話を聞いてくれればいいんだよ。会話体をやりたかっただけだから」
 「天才劇作家のぼくを前にしてよくもぬけぬけとカイワタイなどと言えますね。いくらバンドマンでも恥というものを知って下さい恥というものを」
 「るせえ。どうせ足袋の恥は嗅ぎ捨てだ」
 「何ですか、それ」
「なんてえことを申しまして、昔からバンドマンは歓楽街にたまる、歓楽街はギャングがとりしきるというのが御定法のようで」
 「それ、もう始まってるんですか。乱暴だなあ、もう」
 「時は、一九二十年から三十年にかけて、世は禁酒法時代でございます」
 「口調まで油井さんそっくりになってしまうんですねえ」
 「シカゴにアル・カポネ、ここカンザスにはトム・ペンダーガストがおりまして、これが為に両市では大変にジャズが盛り上がりました」
 「ほうほうほう」
 「といいましてもこのペンダーガスト、ギャングというわけではなく、酒の醸造場を持ち、セメント会社をを一手に握り、民主党のボスで、ハイウェイの建設をやり、ナイトクラブを援助し、オールナイトで出来るように法律を変えてしまうことのできる実力者というわけでございます」
 「ほうほうほう」
 「とにかく、こういうのがミズーリ州全部を支配しているわけですから、全米大不況の三〇年前後、カンザスは不況しらずの歓楽の不夜城、ジャズのメッカとしてその名が響き、ありとあらゆるジャズ・ミュージシャンが押し寄せて来て、ジャズのメッカとしてその名が轟き、ありとあらゆるジャズ・ミュージシャンが押し寄せて来て、しかも仕事の無い奴がいなかったと申します」
 「ほうほうほう。一時日本でも新潟のキャバレーが妙にバンドマンに人気があったけど、あれは東京では買えなくなったハイミナールがいくらでも買えたからですよね」
 「ま、似ていないこともないが、君、どうしてそんな事知ってるの」
 「またまたあ、自分で勝手に言わせておいてなんですかあ」
 「ゲホゲホゲホ、ま、そういうわけで、色々なミュージシャンが入り乱れましたが、地元のベニー・モーテンのバンドに殴りこみをかけてまいりましたのが、『ブルーデビルズ』というバンドでございます。両バンドはやがて一体となってしまいましたが、やがて、リーダーのモーテンが死ぬとバンドは分裂しました。この時に『ブルーデビルズ』にいた評判のピアノ弾きのビル・ベイシーという者がリーダーとなってまとめました。やがて『カウント(伯爵)』というアダ名で呼ばれることになるベイシーのバンドの始まりでございます」
 「ほうほうほう、と言いたいところだけど、こういう時は、このまま続けていくと大変なんじゃないですか」
 「実はそうなんだ。油井さん御本人に電話をして色々うかがおうとしたら、『ええい、痴れ者め、電話でなど用を足さずにこれを読め』ってんで、どさりと資料がとどいた」
 「ほうほうほう。二十年近く前に、唯一の真面目原稿『ブルーノート研究』を書いた時にお世話になった、あれを思い出しますねえ」「なんてえことを申しまして、昔からバンドマンは歓楽街にたまる、歓楽街はギャングがとりしきるというのが御定法のようで」
 「それ、もう始まってるんですか。乱暴だなあ、もう」
 「時は、一九二十年から三十年にかけて、世は禁酒法時代でございます」
 「口調まで油井さんそっくりになってしまうんですねえ」
 「シカゴにアル・カポネ、ここカンザスにはトム・ペンダーガストがおりまして、これが為に両市では大変にジャズが盛り上がりました」
 「ほうほうほう」
 「といいましてもこのペンダーガスト、ギャングというわけではなく、酒の醸造場を持ち、セメント会社をを一手に握り、民主党のボスで、ハイウェイの建設をやり、ナイトクラブを援助し、オールナイトで出来るように法律を変えてしまうことのできる実力者というわけでございます」
 「ほうほうほう」
 「とにかく、こういうのがミズーリ州全部を支配しているわけですから、全米大不況の三〇年前後、カンザスは不況しらずの歓楽の不夜城、ジャズのメッカとしてその名が響き、ありとあらゆるジャズ・ミュージシャンが押し寄せて来て、ジャズのメッカとしてその名が轟き、ありとあらゆるジャズ・ミュージシャンが押し寄せて来て、しかも仕事の無い奴がいなかったと申します」
 「ほうほうほう。一時日本でも新潟のキャバレーが妙にバンドマンに人気があったけど、あれは東京では買えなくなったハイミナールがいくらでも買えたからですよね」
 「ま、似ていないこともないが、君、どうしてそんな事知ってるの」
 「またまたあ、自分で勝手に言わせておいてなんですかあ」
 「ゲホゲホゲホ、ま、そういうわけで、色々なミュージシャンが入り乱れましたが、地元のベニー・モーテンのバンドに殴りこみをかけてまいりましたのが、『ブルーデビルズ』というバンドでございます。両バンドはやがて一体となってしまいましたが、やがて、リーダーのモーテンが死ぬとバンドは分裂しました。この時に『ブルーデビルズ』にいた評判のピアノ弾きのビル・ベイシーという者がリーダーとなってまとめました。やがて『カウント(伯爵)』というアダ名で呼ばれることになるベイシーのバンドの始まりでございます」
 「ほうほうほう、と言いたいところだけど、こういう時は、このまま続けていくと大変なんじゃないですか」
 「実はそうなんだ。油井さん御本人に電話をして色々うかがおうとしたら、『ええい、痴れ者め、電話でなど用を足さずにこれを読め』ってんで、どさりと資料がとどいた」
 「ほうほうほう。二十年近く前に、唯一の真面目原稿『ブルーノート研究』を書いた時にお世話になった、あれを思い出しますねえ」
 「君がどうしてそれを知っているの」
 「またまたまたあ、自分で勝手に言わせているのを忘れないように」
 「ゲホゲホゲホ、いやまあそういうわけで、その油井正一著『ジャズの歴史物語』(スウィングジャーナル社刊)と映画『ブルーデビルズの生き残り』、邦題『KCジャズの侍たち』の解説を読んでいるうちに引き込まれてこうして先に進めなくなってしまったのよ」
 「それで苦しまぎれにぼくを呼んだというわけね。いい加減にしてよう、もう」
 「映画の解説は、野口久光さんも書いておられるが、それによると、昨晩ホテルに迎えに来てくれたあのスピーディという人は、当時のスター、スピーディ・ハギンズだった。その『再会再現カンザス一派大集合』映画の中では、タップを踊っているそうだ」
 「そうなるとその映画を見てからじゃないとうかつな事は書けませんねえ」
 「ところがこれはもうヴィデオディスクで見るしかない。となると、まずヴィデオディスクプレイヤーを買いに電気屋まで走っていかねばならない」
 「当然そうすべきですよ」
 「しかし、ここカンザスには秋葉原が無い。だからそれ無しでやらざるを得ないのだ」
 「もう、ナマケるのの言い訳に妙な時空間虚構詭弁を弄さないで下さい。それでなくても、会話のプロのぼくにはさっきからこの場面がはずかしくて仕方がないんだ」
 「そうかそうか、済まなかった。大体の事情が説明できたから、もうあとは一人でできるよ。資料からはまた適時引用させていただくとして、いや、今回も本当に有難う。さ、バクチやってたんだろ。どうぞそっちの方へ」
 「まったくもう、勝手なんだから」
 意外にあっさりとテディ鴻上が消え去り、おれたちはようやく建物の中に入って行った。事務所のアキ女史を若くしたような明るい目のオネエサマに挨拶をすると、「あなたのレコードを聴いたわ。夫がドラマーなのよ」と言う。「じゃあきっと、これもんの方面のプレイをする人かな」と、身振りで「アウト」な方向を指さすと、「そうなの、クレイジーよ」と言って、頭の側からあらぬ方向に向かって手をのばし、笑った。分かっている人なので、たちまちこの場所に安心する。
 奥にカウンターつきの広い部屋があり、テーブルや椅子やベンチがあり、壁際に低いステージがあり、その上に、鼻先が部屋の中央に向かうような位置で白いグランドピアノが置いてあった。さらに、二階にも案内されると、そこはもっと広いホールでグランドピアノはなかったが、ドラムセット、と三台のアップライトピアノが散らばって置いてある。そのうちの一番古そうなピアノの蓋を開けてオネエサマが言う。
 「これが、ベイシーたちが朝までジャムセッションをやって弾いたピアノなのよ」
 へへえー、と言いながらよく見ると、物凄い代物だった。
 中央部の鍵盤のほとんどが、指の形にエグレている。象牙の表面がすり切れ、その下の木が露出しているのだ。そして、そこの所が手垢だか、脂汗だかにまみれ、こげ茶色に変色していた。
 エグれた窪みに指を置いてみた。それから、椅子に座り、鍵盤を押してみた。長い間調律がされていない音が出た。傷だらけ、窪みだらけの鍵盤は、やたら間隔が広くテンションが思い感じがして、容易にコントロールできない、へたをすると指にケガさえしそうな気がして、早々に椅子から立ち上がった。
 やはり、一人の人間のシワザとは思えない。ベイシーがこの街に来たのが一九二七年、そのまま留まって、一九三五年にバンドを引きつぐ。このクラブが出来たのが一九二七年だから、仕事場でやる以外にも、ここでセッションが始まることは当然あっただろう。ただ、いくら毎晩弾きまくったからといって、ピアノの鍵盤がこのような状態になるまでは大変だ。入れかわり立ちかわり、ひっきりなしにこのピアノは弾かれたに違いない。あるいは、目をギラギラさせて順番を待つ若いピアノ弾きが、ゴマンと並び、飢えたように叩き、鳴らしたのだろうか。いやいやそれとも上機嫌な花形プレイヤーたちが、グラスやタバコを片手にゆったりと居並び、ニコニコしながら次つぎに立ち上がっては、このピアノの前に座ったのかもしれない。
 まあとにかくこうして、確かにベイシーの「指型」もそこに刻み込まれているに違いない貴重な化石ピアノの不思議な窪みに、自分の指をすべり込ませ、一瞬何事かに触れたと、錯覚しないでもないカンザスシティの午後なのだった。
 初日の表敬訪問を終わり、車に乗る。ジャズ・ミュージシャン関係のクラブは他にももう一つあるが、そっちとは今回コンタクトしていない、などというローカル事情を聞きつつ、ホテルへと帰った。

羽織袴でパーティーへ

ホテルの部屋で日本から持ってきたトランジスタラジオをかけながら風呂に入る。どの街でもすぐにFMのジャズステーションが出る。一日中やっているのだ。この街の世話人チャックも週に何度か、DJをやると言っていた。
 誰のだか見当のつかない白熱のバップセッションを聴きながら、風呂からあがり、しばらくして磯プロの部屋に電話をする。誰か羽織袴の着方を分かる者はいないかと思ったのだが、そういう者は一行の中に居なかった。仕方がないから目茶苦茶なやり方で着込んでしまう。鏡を見ているうちに、羽織袴に口髭眼鏡という姿は、どうもいかん、という天の声が響き、眼鏡をはずしてフォトセッションに出かけた。
 この姿は、磯プロのサジェスチョンによるもので、夜のパーティが「正装」でと案内状に書いてあったので、それなら、これが日本の正装というものだといって見せてやれ、同時にあわよくばその姿で弾きまくるところを写真に撮ろうというようなモクロミがあったと思われる。
 ホテルの屋上で撮り、街を歩きまわって撮る。あからさまな好奇心に取り囲まれるという状況ではなかったが、人の視線をまったく浴びないで済むというものではない。これは妙に気分の高揚する時間だったらしく、気がつくとサムライ顔など装って、異国人共をにらみ返したりしているのだ。
 言い伝えによれば、おれの御先祖様は薩摩のサムライだというから面目ねえ。といっても明治の時には東京に出て来ていた。じいさんは建築家で、国から派遣されてヨーロッパなどに行き、帰ってきて、あっという間に洋風刑務所を五つも日本中に建てた、というからますます面目ねえ。その内の一つは鹿児島の石造りのもので、研究者には大変貴重なものらしいが、これは取り壊し問題が生じて、一九八六年十月の段階では、そのメキシコの砦のような正門の前で設計者の孫、(つまりおれ)が、取り壊し反対コンサートをやるのやらないのという騒ぎになっているが、これにはこれ以上今は深入りできない。一方、母方のじいさんは、法務大臣をやったということで、つまり、母方が摑まえては、父方の牢屋に入れるという、実にどうも困った御先祖様たちなのだ。
 そのようなことも否応なく思い出されつつ、撮られているわけだが、実態はどこから見ても一八のなりそこないだ。
 しかし、異様な格好をすると、妙に気分が高揚するのは確かで、この時もそのまま平気でどんどんレセプションに出かけて行ったのだった。
 他の者もどこから取り出したのか、スーツにネクタイ姿となって、会場のあるホテルのロビーにたむろする。ここでも誰もしげしげとは見ない。もしかしたら日本の当たり前の服装と思っているのかもしれない。一人だけ、制服を着たベルマンらしいのが通り掛かり、
 「あんた、サムライか」と聞いた。
 「そうだ」
 「違うね、あんたはサムライじゃないよ」
 「どうして」
 「本当のサムライは、もっとデカい」
 馬鹿にされつつ待つうちに時間となり、会場に入った。
 広い暗いホール。中央に結構セコいビュッフェテーブルがあり、客用テーブルがあちこちに散らばっている。タキシードとドレスの白人カップルが数組ひっそりと座って何か食っている。場違いという感じだが、この妙に寒ざむしい雰囲気には、場違いでないようなものは無いんじゃねえかなあ、などと、ややあきれ気味となる。部屋の片隅にマイクスタンドが一応あった。これを使って誰かが何かを喋り、ワッと盛り上がるところへスターミュージシャンが次つぎに登場して和やかな中にも豪華な交歓風景が繰り広げられる、のかとも思ったが、まったくそういうことはなかった。最後までマイクは使われず何も起きない。なああんにもないパーティーだったのだ。
 まあ、来た奴が勝手に交歓しろというのが御趣旨なのだろうが、途中で磯プロが、払った金額を急に思い出して、思わず、
 「なんなんだ、これは」と大声でワメいたその気持は、全員によおく納得されるものなのだった。
 もうちょっとまし、というよりは、特別な関係者とスターミュージシャンしか入れないオールインサイダーの物凄い会、という情報によって、このパーティーを磯プロに推薦したリチャードは、ややアセリ気味だったのが、それでも顎髭をなでつつ、上下白で決めたスーツ姿で動きまわり、何人かの人におれを会わせてくれた。
 故メリー・ルー・ウィリアムスのかわりに表彰を受けにきた、マネージャーがいて、この人は牧師だか神父だかの格好をしている。話だけで、実際に記事も、音も知らないのだが、たしかメリー・ルー・ウィリアムスとセシル・テイラーが数年前にカーネギーホールでデュオをやっている。そのことを聞かずにはいられない。すると興行は大成功だったが、何の斟酌妥協も無しに自分のペースで弾きまくったセシルには困った、という話になった。もう少し一緒にやれるところはやって、それから自分のこともやれ、とまあ、相手方マネージャーなら必ず言うことだ。だが、そういう妥協を一切しないのがセシルなのであって、こちらは困るどころか頭が下がる。神父様はなおも色々とセシル評をして残念がった。
 「もう一度やらないですか」などと思わず馬鹿なことを聞いてしまう。
 「できないよ。メリー・ルーはもういないんだ」
 ニューヨークで予定されているおれのコンサートのことをリチャードが言ってくれる。ああ、かならず行くよ、などと言って手帳にメモしたが、当日は現れなかった。今頃は評判を聞いて「しまった」といって泣いて悔しがるだろう。そんなことはねえか、どうも異様な格好のせいで気分が昴まりっぱなしだ。
 ボブ・ブルックマイヤーにも会った。この人の印象は、予想とまったく異なった。なぜか、ずんぐりした体型の縁無し眼鏡の人というイメージだったのだが、これは誰か他のプレイヤーと間違えているのだろうか。ここにいるブルックマイヤーは、姿形がジェームス・コバーンそっくりで、態度物腰もそれに似合った紳士的かつハードボイルドなお方なのだった。
 羽織袴には、大体皆、相好をくずすという感じがあって、初対面の儀式をスムーズにした。特にそれについて色々質問するなどという儀礼的偽善的効果ではなく、民族衣装を着ているアフリカ人がいる、というのと同じように、単に、あ、そういう奴なのか、という風に見ているのではないか、とも思われる。
 ジョージ・ベンソンにも会った。紹介されるなり、
 「お前はよいプレイヤーだ」という。
 「どうしてだ」
 「それだけの人間を連れて、日本から来て、アメリカを旅しているんだからな」
 「・・・・・・・・・・・・」
 そのうち、ベンソンを見つけたテレビの連中がやって来て、ライトを照らしマイクを突き出し、ようやくその一角だけがショウビジネス関係のパーティらしくなってきた。
 ベンソンは、「カンザスには縁がある。ジャズにも縁がある。今はこういうことをやっているが、もとはジャズなのだ。ジャズに戻って来られてうれしい」というようなことを言っていたようだ。今晩はカウント・ベイシーをバックに一曲フィーチャーされることになっている。それこそ、「連れて歩いている人間」がゴマンといて、レコードのヒットによって、聴き手を世界中に持つベンソンが、一生懸命という感じで「ジャズ」に敬意を評しているという、この国ならではの光景だった。
 ま、そのようにしてこの午後六時に始まった「レセプション」と称するものが、だらだらと終わりに近づいていった。一同あきれはてつつ酒を飲んだが、この酒も別に金を払うのだと知って、さすがの「金のことは何も考えない」と、テディ鴻上によって指摘されていた磯プロも、ついに、イカリが心頭に発し、「ナンナンダ、コレハ〜」と、この日二度目のオタケビを上げざるを得ないのだった。

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