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・アメリカ乱入事始め/山下洋輔著 第六章

第六章 ニューヨーク篇

メイン・エベントはこれからだ

十時三十分ニューアーク空港に着陸。車でハドソン河を超えてマンハッタンに入って行く。このわけの分からない大都会に来たのはこれで三度目だが、前回来た時に見たある光景が忘れられない。
 この旅の最初にニューヨークに着いた時に、空港から唐突に「イトコのケイコ」という者に電話をかける、という箇所があったが、そこら辺のつじつまも合わせつつそのことを書く。
 ベビーフェイスかつグラマーなケイコは、義理の従妹だが、国立音大で声楽をやり、芸大の大学院に進み、オペラ歌手として将来を嘱望された。何しろ家に来て軽く歌うだけで、ガラスは砕け、壁の絵は落ち、天井が剥がれる。しかし、彼女はどうしても、組織序列上下長幼の序などを嫌い、とうとうジャズ歌手になると言い出した。それで家に来ては、「早く酒とタバコで声をつぶせ」などと無責任なことを言う義理従兄の伴奏で歌い、さらにプロの仕事場に進出していたのだが、ある日突然、「これではいかん」という天啓を得て、すぐに荷物をまとめ、浦和駅から京浜東北線で東京に行き、そこでギター弾きの恋人と落ちあって、丸の内口から大陸横断鉄道に乗りかえ、ロッキー山脈を超えてどんどんニューヨークに行ってしまったのだ。
 その時に、浦和駅までトランクをかかえて走って行ったハイヒールをはいた後姿が、ニューヨークについて思い出される光景か、というとそうではない。
 ニューヨークに着き、修業しようとして色々聴きまくったら、「あ、こりゃ駄目だ」という見極めがついてしまった。恋人がひと足先に帰ることになった。
 というわけで、車道に白い煙の立つ寒い冬の午後、セブンス・アヴェニューで交した別れのキスの光景がそうかというと、これでもない。
 ケイコは一人残り、再び天啓を得て、今度はピアノを練習しはじめた。語り弾きを習得した。ニューヨークで日本の歌を語り弾きすると、不思議に違和感がなかった。やがて、市内屈指の高級日本人クラブで弾くようになった。ピアノ伴奏で日本の歌を歌いにくる在紐育大会社VIPたちが、どんな音程で歌い出してもすぐにピアノをつけてしまう。
 こうしてそのまま住みつき、十何年になった。ガードマン付きの高級アパートで優雅な暮らしだ。そして、そのアパートをおれが最初に訪れた時に見たガードマンの顔のシワが、ニューヨークと言えば思い出す光景だったのか、というと、これまたそうではない。
では、連れて行かれた店のバーで飲みながら目にした、あらかじめの申し込み順にしたがって「◯◯さあああああん」と名前を呼ぶケイコの甘い声に、幼稚園児のように無邪気に喜びつつ拍手に送られて立ち上がりピアノのそばにやって来る大日本在紐育VIPの方がた、という光景だろうか。
 いやいやこれも違うのだ。
次の日に、オーナーの日本人、トニーさんがドライブをしてくれた。白いベンツのスポーツカーで、ハドソン河ぞいに上へとぶっ飛ばした。廃墟と化しつつあるというブロンクスの光景をハイウェイから眺める隙もなく、車はウエストチェスターに入って行く。そこらはあっという間にもう、森、林、原生林、という環境なのだ。さらにハイウェイを一時間程飛ばすが、周りの景色は変わらない。次の町が一体現れるのか、と思える程、深く深く原生林の中に迷い込んで行く気持ちになる。
 やがて、トニーさんは車を逆方向に向け、ニューヨークへと帰りはじめた。そして、その途中ちらりと見えたのだ。
 海と二つの河と原生林に囲まれながら、かろうじて空に摩天楼を突き出している小さな人口集落建造地帯が。
 その周辺部を海が、森が、ひたひたと侵していた。隙さえあれば、自然は雑草の伸びる早さで、元の姿に戻ろうとしていた。ニューヨークは太古の原生林に今にも飲み込まれそうになりながら、たそがれの中で、反撃の明かりを皓々とつけ始めていた。
 この光景のことを言いたかったのだ。周りの無抵抗な自然を白茶けた傷跡にしていく無反省凶暴癌細胞都市ではなく、逆に何もしなければ雑草の中の石ころとなり果てる、という恐怖感から、ニューヨークは、泣き、わめき、踊り、暴れ、笑い、殺すのに違いない。
 などと言っている内に、車は走り、マンハッタンに入る。セントラルパークの東側にあるホテル「ゴールデン・チューケフホホ匕」いけねえ、ワープロが馬鹿になった。ローマ字入力の筈がいつの間にか、ひらがなモードになっていやがった。「ゴールデン・チューリップ・バルビゾン」だ。そこにたどりついて最後のチェックインを行った。
 元レディスホテルだとかで妙にナマメカしいピンクっぽい色調な軟弱な部屋だ。
 シャワーを浴びて、一息入れていると電話が鳴り、鴻上の声で、これこれのチャンネルを見よ、と伝えてきた。先に来て色々調べたらしい。
 指定のチャンネルを回すと、明らかにコールガールのコマーシャルと断定できるものをやっていた。これがウワサの無法地帯、ケーブルテレビらしい。しばらくすると、全裸の女が出て来て、シェイプアップ体操をベッドの上でやり始めた。昔、キャバレー仕事でアクロバット女の伴奏をしてびっくりしていたら、「ぼうや、キャンプに行くとドーヌ(素っぱだか)のアクロバットがあるよ」と言われたことがあることを思い出した。女に全裸で体操をさせるという悪夢を実現させてしまいやがった。太古の原生林の侵略との闘いも、よほど大変なのだろう。
 八月二十七日。朝、電話で目を覚ます。天草からで、今、銀行にいるが、非常に時間がかかりそうなので、鴻上、北さんと先に演奏場所の「スウィート・ベイジル」にタクシーで行ってくれ、場所はこれこれ、というものだった。
後で聞くと、磯プロがヴィデォチームに前渡しするキャッシュを銀行でこしらえに二人で行ったわけだが、この対応に出た男が馬鹿で、あるいは、こちらでは普通かもしれないが、大変ノロマだった。トラベラーズチェック分の大金を数えるのに、そこにある札を一枚一枚足しはじめた。「ええと、五ドルに、十ドルに百ドルに、二十ドルに、おっと、また五ドルに、今度は五十ドルに」などという風にやり、途中で電卓を押し間違えると、「オー、シット」といって全部最初からやり直すのだという。同じ種類の札をまとめて手で数えておく、という智恵が無いわけで、これを見た磯プロがさすがにイカリ、天草を通じて、ああしろこうしろ、と言ったのだが、何の聞く耳持たず、白痴作業を続けたそうだ。世界一の大都会の一流銀行にこういう方が居るという豪快さが保たれているわけだが、ここにつけ込んで、日本の普通の銀行のOLが半年で一流銀行の支店長になってしまった、という話もあるという。
 二人が銀行でカリカリしている間に、鴻北山でタクシーに乗り、スウィート・ベイジルへ向かう。七番街の南、ヴィレッジといわれる界隈だ。少し北の同じ側にヴィレッジ・ヴァンガードがある。
 スウィート・ベイジルはこぎれいな作りで、ガラス張りのテラスが歩道に面してあった。今は、ヴィレッジ・ジャズ・フェスティヴァルの期間で、方々で演奏が行われているらしい。今日のコンサートも六時という普段ではあり得ない時間だ。
 塚本さんとヴィデオチームはすでにセッティングをはじめている。たいして広くない木作りの部屋の一番奥にステージがあって、ピアノの位置がもう決められていた。ライトの加減をみながらカメリハのようなことを行う。本番に着る白シャツを見せて、これでよいかというと、あまりよくないと言う。胸の所にかすかに水色のストライプが入っていて、テレビ画面では縞模様はブレるから撮る方としては完璧を期す為にこれを嫌うのだ。
 折角だから言うことを聞くことにして、リチャードにシャツを買える店の案内を頼んだ。リチャードは昨日から街に帰っていて、久しぶりに妻子と会い、兄貴の所のパーティーに行って朝まで飲んだといっていた。ここら辺に住んでいるらしく、地元民の顔となっている。
 鴻北も共に、古着屋も含めて何軒か回ったが、どうもこれといったものがない。やがて、「ニューヨーク」という名の着物専門の広い店に入った頃にはもうどうでもよくなっていた。白でスタンドカラーという原則を忘れることにして、エリつきで色のついたシンプルなものを手にとった。
 「どうかな、これは」と鴻上に聞くと、よい、という答えが返ってきた。今迄聞いたものについても「ちょっと変だ」などとアドヴァイスしてくれていたのだ。色の濃い紺と水色を選び、さらに聞くと、
 「あ、紺がいいですよ。それなら、自然でしかも深み、というものがある」と鴻上がサラッという。着る物についてちゃんと何か言えるというセンスが、おれには永久に分からない。しかし、北さんにしろ鴻上にしろ、生身の人間といつも対する仕事なのだから、そういうことが「見える」というのは当然のことなのだろう。
 午後二時からバンに乗りこんでヴィデオ撮影に出かける。羽織袴でピアノを弾きながらトレーラーに乗ってそこらじゅうを走り回る、という案は予算その他で実現せず、かわりに、ワシントン・スクエアーのアーチの前で真っ赤なアイスクリームをなめたり、地下鉄から出て来てニューススタンドで新聞を買ったり、ポルノショップのショウウィンドウを見たり、レコード屋をのぞき込んだり、ハドソン河の打ち捨てられた波止場の跡にたたずんだり、横断歩道を渡ったりした。そうやって最後に、初めてこの街に来た男がスウィート・ベイジルにたどり着く、という寸法だ。
 「なんだか観光っぽいなあ」と磯プロが懸念を表明したが、塚さんは「大丈夫」と言い、英訳を聞いた監督は「ニューヨークはどこを撮っても観光だよ」と、至言を吐いた。
 午後六時前に、スウィート・ベイジルの裏口から入り、着がえて、表に回る。人が沢山来ていて安心した。途中でSOLD OUTの札が出たそうだ。
 オーナー夫人らしいレディが簡単な司会をしてくれた。出て行って弾く。
「ラウンド・ミッドナイト」から始めた。ゆっくり音をしみわたらせて、聴き手共ども落着こうとしたのだが、そうはならなかった。最初から指も脳も興奮して、押さえが聴かないのだ。二曲目に「仙波山」を演って、ゲンコやヒジを早々に出してやらなければおさまらないという展開になっていった。いったん落着いて、「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ」をやり、「リズマニング」をやって一段落した。時間があれば、休憩するところだが、全部で一時間という制限付きだ。
 ここで気分を変えて「トロイメライ」と「ボレロ」を並べた。これでフィニッシュというつもりで、次の「チュニジアの夜」はアンコール的気分でやった。これが終わったところで、初めて立ち上がりおじぎをするという詰め込みプログラムだったのだ。いったんステージから降りると、拍手は続いてそのままアンコールとなった。再び上がって「ドンミーナシング」をやる。アレヨアレヨというまのコンサートだったが、途中でもうそれでいいや、と決めたのだ。「何だか知らないが、あっという間に滅茶苦茶をやって消えた日本人がいたが、ありゃなんだ」ということでよいと思ったのだ。つまりは、
「だめよ、ぼうや、もっと落ちつかなくては」
「むは、はへ、ひへ、ほへ、はへ、ほへ、ひへ」
 というようなことで、どうせおれはガキだ、悪かったな、こん畜生。などと錯乱しつつ、乱入奴隷旅の最後の夜はあっという間に過ぎて行ったのだった。
 結果、オーナーのホルスト・リーボルトは「来年の春に三日間やるから好きなことをやれ」と言い、
「ニューヨーク・タイムズ」は、「新旧ジャズピアノのかけ橋」と言い、
 ヴィデオチームは、十二時間画面をみまくって、「観光シーン」はタイトルだけで、あとは音楽だけで押しきるという方針をとることにした。
「良い絵がとれた。なぜかというと、お前がカメラを怖がらないからだ」
「どういうこと」
「カメラがどんなに近寄っても、どんな角度で撮っても気にしなかった。だからこちらも思う存分やれた」
 昔から、どんなキチガイが寄って来てピアノを弾くのを邪魔しようとしても、ヒジウチで殴りつけて弾き続ける、という空想は何十回としていた。一度は、弾いている右手を掴む奴がいたので、思いっ切り左フックを食らわせてやったら、それは夢で、左コブシがオランダのホテルの壁に激突して皮がすりむけた、ということもある。
 ま、とにかくこの演奏はプロ野球選手のよく言う「内容は自分にとって今いちだったが、結果が出てよかった」というやつで、これは、「チーム」の一員ということを前提とした言葉だということが自分でも分かる。つまり、これらの、悪くはないとも言える「結果」によって、「乱入チーム」の乱入打者の責任が一応果たせた、と思いたいのだ。
その証拠に「タイムズ」の記事は大量にコピーして会う奴ごとに見せびらかしたりするのだった。なにしろこの新聞には評が出る、というだけで「大変」だ、というのだから、その「大変」をありがたく享受させていただいたのだ。
 先ほどの店からの申し出も有難いが、これは日本からの渡航費問題というものは考慮されているとは思えないとっさの発言だから、へいへいいずれまたご連絡を、と言うしか無い。
 ともあれ、これで明日のレコーディングが残るだけの大詰めとなって来た。考えてみると、この旅はずうっと一人だけでやるということがなかった。常に誰かと会い、誰かと一緒に音を出してきたのだ。一人だけでやっていく時間の困難さと喜びの両方がよく分かる瞬間でもあった。
 終わって人ごみの中で色々な顔と会う。日野皓正がスーザン夫人と来てくれていた。ベニーはマネジャーのクリスティンと来ている。何人かの日本人と挨拶をする。読売新聞と共同通信の人が来てくれてインタビューをした。義理の従妹のケイコはメッセージを受けとっていてこの日を楽しみにし、久びさにギンギンに正装して出かける用意をした。それから場所を確かめるために店に電話をすると、もう終わったといわれた、と、これはあとで聞いた話だ。普段では考えられない早い時間のプログラムなのだった。
 やがてチーム一同がやがやと表に出て、通りの向こうのカフエの外に並べてあるテーブルに座り込む。ワインで乾杯をする。薄暗くなってきたヴィレッジの景色をぼんやりと眺める。スウィート・ベイジルでは、アート・ブレイキーの演奏に備えて入れ替えが行われている。
 メシは日本メシ屋らしきものが近くに見えたのでそこに行くことにする。店内に入ると、カウンターから「あらあら」という声がして、見ると、宮下順子さんだった。四谷のバー「ホワイト」で時どき会う顔見知りだ。
「わー」という声がして、テディ鴻上は直立不動になる。大ファンだったらしい。紹介すると、ほとんどしどろもどろになりながらも、いつの間にかサインをいだいているというう素早さだ。
「色々お世話になりました」などとわけの分からないことも口走っていたようだった。
 食事後、ホテルに帰り、夜の十二時まで倒れこき、寝る。
 その後の行動を、磯プロのメモでたどると次のようになっている。
「12:AM ホテルのバーで鴻上、北島、磯田ひっそりと乾杯。そこに生田氏登場。アップタウンの生田いきつけのバーに行くと、ナント、J・ライドン、B・ラズウェル等がおったので合流して飲む。この日はツアー開始から禁酒、ダイエット、禁煙を守り続けていたカメラマンの北さんがホテルで乾杯しているあたりから逆上し始め、酒は飲むはタバコは吸うは鴻上にからむはの乱心状態となり、あげくに『ヨースケ一番、モイエが二番』とジャズまで論じてしまうのであった。外のバーで飲んだ後も磯田部屋での生田、鴻上、北島、磯田の恒例の深夜のバクチ大会でも、この『ヨースケ一番、モイエが二番』のフレーズは果てしないリフレインとなって続いたのであった。しかし翌日、まったくそれを本人が覚えていないということを聞いた我々は、彼がズーッと禁酒していたことがいかに正しい姿勢であったことかを痛感したのだった」
 ということだたのだが、ホテルのバーでおれも確か合流している。アップタウンのバーで会った人たちは斯界では有名なプロデューサーやアーティストだったわけだが、それにたがわず、パンクヘアーにところ構わずリボンを結びつけたライドンは常に大声をあげて滅茶苦茶なことを口走り、ラズウェルは黒い山高帽に顎鬚で悠然と飲むという姿だった。前者は、「セックス・ピストルズ」と「ピル」というパンクグループのリーダー、後者は、ハービー・ハンコックを変身させてヒットさせた名プロデューサー兼ベーシストだ。ひと目で、マトモな仕事をしている人間達とは区別ができる。だから、天草がおれを同業者だと紹介すると、ライドンは不思議そうな顔で「そういう風には見えねえな」と言った。ただこのライドンは、キチガイのような振りをしているが、目をみると、これが非常に正常に澄んでいるので、実は安心なのだった。
 明日のレコーディングがあるのでこの日は一人だけ早目に帰る。

レコーディングはラフマニノフのピアノで

八月二十八日。二時にRCAのビルに行く。マンハッタンのど真ん中だ。Aスタジオに入るとエンジニアのデイヴ・ベイカーがいたので安心する。過去、「砂山」、「ホット・メニュー」などのアルバムを録ってもらっていて、気心が知れているのだ。前回ニューヨークに来た時は、家にも何度か遊びに行って京子夫人の絶妙手料理をごちそうになっている。
 七時まで十四曲、二十八テイクを録るという結果になった。
 オーケストラが悠々入る広いスタジオの真ん中にいかにも貫禄のある彫り物つきのようなスタインウェイが置いてあって、聞けばこれはかの、ラフマニノフの自宅に置いてあったものだそうだ。ラフマニノフの指の形に鍵盤がえぐれている、というようなことはなかったが、なんとはなしにコーフンし、何曲目かにヒジ打ちをしたら、鍵盤が一枚剥がれて飛んだ。これをとっさに北さんが食べていた差し入れのオニギリの御飯つぶで貼り付けて逃げかえってきた、というのが、鴻上のレポートとなってライナーノーツにまで載ってしまったが、実際のところ、御飯つぶで付くわけはなく、いやいや、こういう話は面白い方がよい、やはりオニギリ説にしておこう。ついでに、スタジオの管理人がイカリ狂って「フノニマフラあ〜〜」などと叫んで斧を持って追いかけて来た、ということにもしたいが、これはもう遅いか。実は、管理人はこんなことにはビクともせず「大変エキサイティングなレコーディングだ」と喜んでいたというから、余裕がある。
このレコーディングは、磯プロ案として、「誰でも知っている曲をやってみる」という方針が立てられていた。奴隷旅のさいごにやるものとしてふさわしいかどうか分からないが、ま、そういう「意義」はあとで何とでもつけられる。どうせ、旅の成果とか意味が分かるのはずっと先の話しだ。そのようなことを考えている暇もなく、最後の奴隷奉公をさせていただく喜びに浸っているのだった。
 「バッハ無伴奏チェロ組曲第一番ト長調プレリュード」という、正確に言うとどうしてもこのように長くなるものを最初に弾く。指ならしに丁度よさそうだったからだが、こういうもの(勿論、もとの音を勝手に変えてしまうが)をまずやりたくなるという料簡が、我ながら分からない。次に「枯葉」をやったのは、これで「ジャズ」っぽい気分を整えようとしたのだろう。と思うと、次には「ユーモレスク」で、これは前述のようになぜかしつこくリクエストされていたものだから、ま、宿題を早えとこ片づけて楽になろうという魂胆が見え見えだ。案の定この魂胆は見すかされて、磯プロには何となくはっきりしたOKを出さず、後でまたとるように、という指示をするのだった。次は「シークレット・ラブ」だが、これは「ボレロ」のイントロをやっているうちになんとなく思い出したもの。「ボレロ」のあとは、「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ」で、これは前にもレコーディングした。次の「オーバー・ザ・レインボー」は、レコーディングの方針を理解したデイブのとっさのリクエストで、こちらも人前でやるのは初めてのままとっさにやってしまい、結局これがアルバムA面一曲目に抜擢されることになる。「ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第二番第三楽章」というこれまた大仰なものは、実はポピュラー化したテーマのそのまたうろ憶えというやつで、恥ずかしいったらありゃあしないのだが、ラフティのピアノだということで、思わず浮かれてしまったのよ。
「トロイメライ」はソロでよくやる曲。このあと、「ティー・フォー・トゥー」、「スター・ダスト」、「テイク・ジ・Aトレイン」は立て続けに初物を蛮勇引力のしわざでやってしまう。「P・S・アイ・ラヴ・ユー」で一息ついて、さらに「サマータイム」「グッバイ」も初物と、ま、旅の身空を良いことに、何を勝手にやっているのだ、というようなことでもあったのだった。磯プロはしかし油断もせずに目を光らせ、あれも駄目、これもやり直し、と言って全部で二十八回やらせたから、平均一曲二回ずつということになる。
 ま、結局は、都庁の屋根の上に枯葉が、水漏れした秘密洗いでボロボロになり、唯一の洗剤をもって、おおげさな雨棒を、ラフな格好で踏まなかったり踏んだりして、あげくの果てに、トロとイカとメライの刺身をむさぼり食って、お茶を四十二杯飲み、俳優たちがストライキをするのにもかまわず、「竹痔は取れん」などと訳の分からない事をわめきながら、ポリス・スペシャルをブッぱなし、目を洗い、ようやく夏時間も終わった頃に好ましいバイクで日本に帰った、とこういうことなのだった。
 半分死にながら、皆と中華屋に行き、乾杯。
 午後十時、ホテルにかえり、バクチ部屋に行く。見学しているうちに実技に参加してしまう。ひどい目にあった。札を引く順番が目まぐるしく変わるルールがあり、だからキャッツ・アイという名前なのだが、それに気がつかないと、あっという間に馬鹿にされつつ目の前にカードが山積みされる。カードの多さによって金が取られて行くのだ。昨今、ドンバのラリサー(サラリーマン)化、マネージャーのドンバ化、ということが問題になっているが、それらのことも思い出される光景だった。
天草などに言わせると、ドンバなどという者は、ヤクでも何でも好きなだけやって、そのかわり捨て身の有り様を皆様にお見せすればそれでよい、というのだが、ああいうキチガイ力の出るものは未来から力を前借りしているのだ、という青野聡説もあり、それなら、いずれ取り立てが来る。そのおとしまえをどうするのだ、と聞くと、
「んなもなあ、借りるだけ借り倒してそのままどんどん早死にすればよい」と、キッパリとしたお答えだった。ドンバなんて者は、キチガイ沙汰をやって早死にするのが役目だ、と言われればそれもそうかとも思うが、「天才」でもない奴が愚鈍頭で無理して役目で狂って見せても、これ、ただの醜い自己陶酔の馬鹿者になってしまう。それのどこが悪いと言われると、また、それもエライ、というしかないが、こちとらどうもその辺になると、アイマイとなるしかないのだ。
「才能の無い奴が使命感に燃えること程、はた迷惑なことはない」という相倉久人の言葉までなぜか思い出されつつ、永遠の課題が横たわるのだった。
 などと言いつつバクチをやっている内に、プロデューサーとコーディネーターとカメラマンと劇作家に、よってたかってムシリとられた。
 カメラマンの北さんは、もう完全に自己開放を行っていて、禁煙パイポなどは彼方に素っ飛び、タバコ三本を同時に加えてケムリもうもうとなりながら眼光も鋭いバクチウチ姿となっている。言葉の端はしに「六十年代のゴールデン街」的なニオイがするといって、そのたびに、鴻上にからかわれる。年(三十二)の割にはたしかに変で、「ゴールデンゲイトのオミッチャン」などというジジイしか知らないセリフを吐いたりするのにはビックリする。一体どういう少年だったのだろうか。麻雀で暮らしていた、などという会話もあったりして、とうとう北さんは「謎のゴールデン街少年」ということになって、ことあるごとに鴻上にからかわれることになった。
 といっても、このニューヨークで初めて北さんの写真集を見た時には、皆ビックリした。木村伊兵衛賞という写真界の芥川賞のようなものを受賞したというその「ニュー^ヨーク」という作品集は、やはりこの乱入パートナーがただ者ではないということを皆に見せつけ、皆は感心したり、安心したり、磯プロの鑑識眼を見直したりしたのだった。

かくして八十五年の夏の旅は終わった

 翌二十九日から帰る日までの事はもうろうとしていて順序だてて思い出せない。天草に連れられて、ジョン・ライドンのレコーディングを見に行ったり、そこで坂本龍一に会ったり、矢野顕子のレコーディングを見学したり、有名入場困難ディスコ、「パラディウム」に坂本龍一の「顔」ですんなり入ったり、北さんとフォトセッションしながら中華街やアル中老人街のバワリーストリートを歩きまわったり、リチャードと一緒にスウィート・ベイジルにいってオーナーと話したり、一日中部屋で死んでいたり、ベニーのアパートに行って練習したり、再び坂本龍一とヴィレッジを歩いたり、一緒に義理従妹のケイコの店へ行ったり、気がつくと坂本龍一がおれの部屋に居て、ピアニカを吹きまくり、セロニアス・モンクの曲集を見せると、あっという間に次から次へと初見で吹いてしまうという早技を見せたり、折角だからと鴻上に電話して呼んだ時には、もう朝八時で、それでも鴻上はやって来て、わあ龍一さんだ、などと言いつつ、あとで「坂本龍一さんの正体をとうとう見てしまった」などとエッセイに書いたり、というようなことが起きた筈なのだが、よく憶えていないのだ。
 ただここに、「天草VSコリアン大戦争」というものがあって、これの記憶はある。
「きのうの晩はまいっちゃって」と珍しく天草が自分の行状を喋りだしたのが、さかのぼってスウィート・ベイジルでのコンサート前の、ヴィデオ・セッションに走り回る車の中でだった。
 大親友のラズウェルやライドンたちが毎日夜中にやっているレコーディングに顔を出し、明け方終わったあと皆で食事に行った。その時間に開いているのは近所のコリアンレストランだけで、そこに入った。精悍な顔のコリアン青年がいて、黙って飲食物を出す。その間、白人たちとは時折冗談を言い交わしたりするが、ポンニチと見破ったらしく、天草に対してはどうも態度が軟化しない。天草はどういう訳か自分でも不思議な動機で、いつの間にかこの青年に「取り入ろう」という言動を示しはじめた。何とか相手の心を和らげて、民族関係に貢献しようとしたらしいのだ。
「自分でも驚いたけど、ありとあらゆる手段を繰り出してしまった」
 それらは、お世辞、こびへつらい、道化的冗談、真面目風歴史懐古済まなかった水に流してくれとは言わないが、こういう機会だから仲良くしよう的よびかけ、等々考えられる手段がすべて繰り出されたが、結果は、全部裏目と出て、相手はますます不機嫌になり、顔を見ようともしなくなった。天草はますますアセリ、酔っ払い、それでも最後まで努力をし、しかし、一顧だにされず、しまいには帰るしかなくなった。「ではまた来るからね。アハアハアハ」などと精一杯の愛想笑いをしつつ、フラフラになって外に出ようとした時には、最早、ガラス戸があるにも気がつかない状態だった。あっという間に、それに額から激突するという、目茶苦茶なクライマックスを迎えてしまった、というのだ。
「どうしてああなったのかよく分からない」と、さすがの天草もお手あげで、これはつまり、同業パンク白人、ニューヨーク在住コリアン青年、不可思議逸脱日本人が一体となってこの街の妖気にさらされた結果の一作用だったのだろう。
 こういう背景のもとに、再度、同一レストランへの訪問がなされた。その時にはおれもいた。
 レコーディングの後に外へ出て、夜明け前の四十四丁目あたりを、山高帽やパンクヘヤーが徘徊する。ライドンは相変わらず大声を出し続けで、「スレイヴ!」などと喚いている。「ドレイはどこだ、ドレイは、ドレイどもはどこにいった」などと言っているようだったが、これは、オンナのことなのか、ジャーマネ関係者のことなのか、別世界一般人のことなのか、または特定の人種のことなのか判断がつかない。そのようなことをわめきながら、ためらいなく閉まっているレストラン前に到着し、中が真っ暗だというのに、ためらいなく表のガラス戸を乱打した。すると精悍な顔つきのコリアン青年が、たいして嫌な顔もせず出て来て、様子の分かった物腰でバーの明かりをつけ飲食物を出す準備に取りかかるのだ。
 天草は、非常にバツの悪そうな顔であって、これまたこの旅で初めて見るものだった。何となくバーにも座らずモジモジするという感じなので、おれなどはあきれつつ、面白がって、「さあ早くまたケンカをしてくれ」などと期待をしていたのだが、この緊張を一気に破り、話しを先に進めてしまったのが、ライドンだった。
 ライドンがいきなり天草を背負うような姿勢で、両手を両ワキにかかえこみ、「二人羽織」のような姿となって、そのままカウンターのはじにいるコリアン青年の方へヨチヨチと移動して行ったのだ。それから腹話術的ひょうきん声で、
 「おれの友達が、仲良くしたいと言っているよ」ということを言って、抱えた天草の右手を振ってみせた。
 この荒技に虚をつかれて、天草もコリアン青年も思わず笑い、手打ちが済んでしまったのだ。
 心おきなく飲み食いをした。青年がケサミフへムサ、いけねえ、またワープロが狂った。ラジオをつけたらしく、ジャズが流れだした。しばらくすると、ライドンが「この音は、くせえ、この音は臭う」などとわめき出す。こちらでは、おれはラズウェルに向かって、「ニューヨーク・タイムズに悪くない評が出た」などと自慢している。
 「あそこで褒められるのは良いことか悪いことか」ついでに妙なことまで聞いてしまった。ラズウェルは真面目な顔でうなずき、「もちろん良いことだよ」と言う。「あんなスクエア新聞に褒められたら、かえってまずいぜ」という答えもあるかと思っていたのだが、ま、礼儀正しく自慢させてくれたのだった。
 こちとら、図に乗ったらしく、ライドンの騒ぐのを見ているうちに、「シンガーは神のようなものだ」などと言い出したのには我ながら驚いた。聞きとがめたライドンが、なんだとう、という様子でカウンターの右端から立ち上がってこっちに来てしまった。左隣の坂本龍一のそのまた隣に、「おれは、神なんかじゃねえ」とわめく。
 歌コンプレックスもあって、かねがねシンガーというのは全表現をまっとうしている羨むべき存在だ、という考えがある。その者がバンドの前に立ったら、妖しの力で、バンド全員時空の彼方にふっ飛んで行く、というものでなくてはならんのだ。この力を持たない奴がシンガーの振りをしてはいけない。
 ライドンには明らかにその力があって、だから皆がそこに集まり、どこか別の世界に連れて行ってくれと言い、歌っていない時もこうしてその一挙一動を鑑賞するのだ。
 そんなこんなで、カンザスシティでベイシー・バンドをゆすりあげた女歌手のことを話して、自分が「クサイ」音楽の立場にある者であることを明らかにしつつ、「あんたもエライ」ということを言おうとしていたのだ。途中で何回かライドンが「おれは神ではない」とわめいたが、かまわず「歌手=神のようなもの説」を続け、「あんたもそうなんだから、そうなれている自分の才能に、自分だけが持つ声に、自分だけが出せる音程に、感謝をしろ」などと、言ってしまったと思うのだが、龍一さん、違いますか。
 このような妙な時間もありつつ、ニューヨークの休日は過ぎて行った。
 いつの間にか、時は九月になり、世界中どの街にも吹くあの一瞬の「秋」の風がここにも吹いて、乱入チームは、またそれぞれの場所へと散って行かなければならない。
 帰りの飛行機は、テディ鴻上と二人だった。テディは機中で某「野性時代」に連載するこの旅の原稿の第一回目を書いてしまった。
 成田の税関を出た所で、「じゃあ、ヨースケさん、また」と言ってテディは去る。
 タクシーで成田駅に行き、駅の売店で新聞週刊誌缶ビールを仕入れ、総武線横須賀線に乗って逗子へと向かった。
 アメリカの旅がようやく終わったのだ。
 その後の、乱入チームとの再会を簡単に記してこの本も終わることにしよう。
 北さんは磯プロと一緒に葉山に来て、「一色ソバ」の洗礼を受けた。だから、今度はこっちが、北さんの長野の家の三軒先のオバアチャンが作るソバに挑戦する番だ。一九八六年の夏現在、北さんは再びニューヨークに居る。
 磯プロは前述のように、「出版部」というものの部長となり、この原稿を素早く「エンマ」に売り込んだ。そこでの連載は、三浦や、岡田や、イジメに邪魔されつつも、七回の多きを数え、さらにその後カンズメだのオドシなどがあって、ようやく三百枚を超えて終わろうとしている。
 磯プロは突発的に、ライブスポットに現れ、「どうしてこういう演奏がレコードに出来ないのだ」などとわめいたりしつつ、またもや素早い行動で、大阪の、「ザ・シンフォニーホール」でやったおれの「ピアノ・リサイタル」をレコードにしてしまった。
 テディ鴻上は、鴻上尚史に戻って、自分のバンドじゃなかった、劇団「第三舞台」を率いて、下北沢と、新宿で公演を行い、連日超満員を記録した。なお、カンザスへの車中で話しあった「映画」というものが、鴻上監督脚本でキティによって作られる、という恐ろしいウワサもある。
 天草アキ生田は、ツアー・コーディネイターとしてひっきりなしにやって来るガイジン・アーティストを引き連れつつ日本中を回っている。
 リチャード・オコンは、できたレコード「センチメンタル」を持ってブルーノート・レコードに売り込みに行く、などと言いつつ、ヴィレッジ界隈をかっ歩しているはずだ。
 ベニーとは、八六年の八月から九月にかけて、日本で再会を果たした。「マウント・フジ・ジャズ・フェスティヴァル・ウィズ・ブルーノート」で、おれも出演し、ソロをやり、ベニーと共演した。案の定、「アクシデント」が起きて、おれたちの出演する二日目の未明に大嵐が吹き荒れ、雷は落ち、山中湖畔の特設ステージは流されかけた。一時は「中止」という最悪の言葉まで出た。おれとベニーはヒソヒソ声で二人のジンクスのことを話した。しかし、やがて午前十時には晴れ渡り、二時間遅れで無事に始まった。ベニーとは、あと「ピットイン」で一晩、レコーディングセッションで二晩一緒にやり、六本木や新宿を徘徊し、「ボディ・アンド・ソウル」や「ホワイト」に顔を出し、そのたびにベニーはすぐさま楽器を取り出して吹きまくった。
 おれはといえば、八月は、スペインのカタロニア地方の避暑地でソロをやり、かえってきてからは、ベニーとの共演の合間に、新日フィルと「ラプソディー・イン・ブルー」をやったりしている。十月にはパリ・ジャズ・フェスと、プラハ・ジャズ・フェスをハシゴする。相変わらず旅暮らしだ。
 だが、同じ旅でもこの一九八五年の夏にアメリカで過ぎて行った時間はやはり特別だった。
 一体、仕事だったのか、遊びだったのか、見学だったのか、何が何だか今だに分からない。
 ただ、あそこには、夏の光に輝く大きな茶色の河の流れが今もある。ということだけは確かだ。昔、その流れをさかのぼって街まちに流れ着いたジャズの毒花の名残りが確かにあった。幻の香りをかぎ、花粉を吸い込み、花びらをなめ、茎をつまみ、根を噛んだのだと思う。同時にこちらからも何かをバラまくことができたのかも知れない。
 ま、ともあれ今は、一度体に入った幻の毒花の種が、どのようにうごめき出すのか、ゆっくり待っているところだ。
 いつか、エイリアンになって、全身を引き裂いてくれるだろうか。

                 完

文庫版のためのあとがき

 この一九八五年の乱入ツアーはさまざまなものを残してくれた。
 同行者、出演者、企画者にあらためてお礼を申し上げる。前回のあとがき以降だが、鴻上目撃人は車中での会話をついに実現して「ジュリエット・ゲーム」という映画を国生さゆり主演で撮った。エッセイを書きテレビに出ながら本業の第三舞台は今やひと月の公演切符が八分間で売り切れるという超人気劇団となっている。
 北島カメラマンは相変わらず世界中を駆け回りほとんど日本にいない。かと思うと急に新宿の喫茶店「トップス」に座っていたりする。今回は多忙のさ中に文庫版のために新しい写真をあらためていくつか選んで切れた。
 磯プロはついに株式会社「ピンポイント」の社長となり、その命名が湾岸戦争を予感したものだったので賛嘆とヒンシュクの中でスタートした。すかさず「東スポ伝説」というな本をヒットさせて一息付いているという。
 リチャード・オコンはニューヨークの生活を続けている。毎年行くたびにちがう店のマネジャーをやっているという健在ぶりだ。
 そして、アキ生田。言葉がない。彼は突然この世を去った。坂本龍一の右腕として「ラストエンペラー」を手伝い、映画には日本人医師として出演した。坂本龍一のアカデミー賞受賞を見届けるようにしてメキシコで散った。F1レースを見に行く途中の事故だった。彼の言った言葉の数々が今でも重要に思える。坂本龍一がピアノを弾いて送った青山斎場での告別式には、驚くほど多くの人が来て別れを惜しんだ。
 これらの人々が一体となって残してくれたものの延長の上にぼくは今いる。
 この旅の最後に乱入したニューヨークのジャズクラブには、その後は年に一度一週間ずつ出ることになった。
 実はそれらのことについて、つまり、乱入以後の主にニューヨークについての書き下ろし本が、近々出ることになっている。(仮題「摩天楼ブルース日記」文藝春秋刊)。どうかそちらもあわせてご鑑賞いただきたい。
 日本のジャズの先輩たちの相つぐ訃報に悲しみつつこのようなことを書いている。
                       
                          一九九一年十月 山下洋輔

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