万歩計日和
文/写真・mizugame
今日の写真
デビュー当時の浅野温子さん
03.06.01(日)
たった一本だけの映画制作(3,147歩)

昨日オーチャードホールで、久しぶりに会ったのが原田真人監督。

ぼくが初めて彼に会ったのは、確か1978年。

その頃、ぼくは、映画をプロデュースしたくて、映画関係者の間をうろうろしていた。

そんな時、最初に出会ったのが、大森一樹さん、映画好きの学生だった。

映画評論家の大久保賢一さんから大森さんを紹介された時、大森さんは、ぜひ読んでくれと、台本を渡してくれた。

その夜、台本を読み、すぐに映画化したいと思った。その台本は、既に、松竹の新人脚本家の登竜門、城戸賞に応募され、最終選考に残っていた。

当時のボス、多賀英典に台本を渡し、これを映画化したい、と、相談を持ちかけると、台本を読んだ多賀さんは、キティで映画化することを検討し始めた。

多賀さんに大森さんを会わせ、意見も一致して、映画化に動こうとした矢先に、その台本は、城戸賞を受賞した。

そうなると、その作品を映画化の優先権は松竹にある。松竹とキティとの共同制作を、という話し合いが持たれたが、結局決裂。

松竹が制作することに決まり、大森一樹監督のデビュー作「オレンジロード急行」は、1978年に公開された。

その次に出会ったのが、アメリカ在住で映画レポーターを仕事としていた原田真人。彼を紹介してくれたのが、やはり大久保の賢ちゃん。

原田さんの書いた台本を読み、ぼくは熱狂した。映画狂いの中年と映画好きな若者とに謎めいた女の子がからむ青春映画。舞台は1968年から69年。ラスト・シーンは、東大安田講堂の機動隊と学生との歴史的な攻防戦をバックに描かれる。

主演は、川谷拓三、オーディションをやった結果、台本に書かれた謎の女そのものの新人、浅野温子。主役の若者に重田尚彦。

っが、1979年に公開されたこの作品「さらば映画の友よ」は興行的に大惨敗した。

この映画制作にまつわる話をすると切りがないけど一言だけ。

団塊の世代の多くは、学生運動を経験している。ぼくは、大学構内でがなりたてる学生運動家のアジテーションを耳にしても、一体何を言っているのかが理解出来なかった。友人達はみなデモに参加して気炎を上げていたが、ぼくはひたすら映画制作のクラブ活動に入れ揚げていた。

ぼくにとって、興味があるのは、世の中の革命を起すことよりも、映画をつくることだ。

周囲の友人たちからは、何でデモに参加しないのか、と、冗談半分とは言え、非国民扱いされた。1960年代後半の話だ。

それから10年たち、ぼくは初めて商業映画をプロデュースすることが出来た。

政治の時代と言われた60年代後半を舞台にしつつも、時代の流れとは全く無縁で、映画館通いする男達の話。それが「さらば映画の友よ」だ。

ぼくがこの映画を制作に込めた心の中のメッセージは、10年前、革命を起そうとしてみなさん、お元気ですか?今も革命を続けていますか?当時、学生映画ばかり創っていたぼくは、やっと本物の映画制作に携わることが出来ました。あれから10年たちましたが、あなたは今、何をしていますか?ということだった。

ってなことで、本日は店仕舞い。
また、明日。

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さらば映画の友よ・インディアンサマー

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