万歩計日和
文/写真・mizugame
今日の写真
2年前の今日撮影したかちどき橋からの風景
07.01.05(金)
意識なんてないのさ?!(0歩)

ときおり、雑誌のコラムなど読んでいて、
これは面白そう!すぐに手に入れなくては。
と思わせる本に出くわす。

そ〜いう場合の段取りは、
(1)図書館から借りてぱらぱらと斜め読む。
(2)しっかり読みたくなったらヤフオクとAmazonマーケット
  に登録して出品を待つ。
(3)半年ほど待って、出品されない場合は書店で定価で購入。

そ〜やって手に入れて1/2からちらちら読み始めた
トール・ノーレットランンダーシュ著
ユーザーイリュージョン〜意識という幻想」という本。
これがかなり刺激的で、
マーカー片手に勉強したくなってしまうほどだ。

意識や自覚が、本を読む暇のある人に許された、たんなるぜ
いたくではないのなら、その存在には何か理由があるはずだ-
--生物学的な理由が。
なぜ人間は、理解しがたいほど膨大な情報を環境から集める
体や感覚器官を持っているのだろうか。本人は集めた情報に
気づかないというのに。それは、人間は生存のために、ジャ
ングルの動物の動向や交通信号の変わり方を知らなければな
らないからだ。しかし、もし意識が入力情報からランダムに
情報を選んでいるとしたら、大量に集めた情報など実際に役
に立たない。そこで起きる情報の仕分けには、必ずやなにが
しかの「知恵」が働いていなくてはならない。そうでなけれ
ば私たちは、実際に何が重要かとは何らかかわりなく、ただ
ランダムに選ばれた情報を意識しながらいきることになって
しまう。
意識は膨大な情報処分に基づいている。意識の精巧さは、情
報の所持ではなく、意識以前の情報処分あるのだ。
-中略-
意識が精巧なのは、何が重要なのかを知っているからだ。
それを知るための情報の仕分けや解釈は意識されない。閾下
での知覚と情報の仕分け、意識を支える陰の立役者なのだ。

   「ユーザーイリュージョン〜意識という幻想」より


いかがでしたでしょう、この一節。
科学史のおさらいをしながら「第1章:計算」を読み進め、
「第二章:コミュニケーション」に入ったあたりから、
どきどき度が増して、
200ページほどたったころにぶちあたった文章だ。
この本の面白さを伝えるために、
本書の巻頭に寄せられた賛辞の中から二つ紹介する。


驚嘆に値するほど豊富で興味深いアイデアを積み上げ、意識
というものが、じつはまやかしであり、錯覚にすぎないとい
う主題を浮かび上がらせている。
ダグラス・ホフスタッター(「ゲーデル、エッシャー、バッ
ハ、あるいは不思議の環」の筆者)


私たちは脳にだまされている。意識などというのは幻想だ。
いや、だまされるような私たちが存在するという感覚さえも
が錯覚なのだ。本書の説明には思わず引き込まれてしまう。
さらば、内なる<私>よ。それよりはるかに大いなるものよ、
ようこそ。
イアン・スチュアート(「カオス的世界像ー神はサイコロ遊
びをするか?」の著者)

どうでしょう、手にとってみたくありません?

ってなところで、本日は店仕舞い。
また、明日。

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コメント123
     
志六個 さん 2007年1月 8日 03:05

面白そうですね。 私は関係ないことはすぐ忘れます。意識は薄情そうな潮来笠な旅がらす......(古すぎ)それでいいのね(笑)安心するなぁ〜

志六個さん

いや〜、物忘れが多くなったこの頃。
意識などというものは無いというお話は
何とも心強いですよね、お互い。(笑)

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