万歩計日和
文/写真・mizugame
今日の写真
2004年の今日の写真。
19.01.09(水)
どんだけ過激なのよと笑わずにはいられないほど刺激的で眠れなかった。 (7812歩)

起床07:15 体温36.8℃(19:05) 体重54.4Kg。

夜中の3時ごろに目が覚めた。


トイレから戻ってさてもう一回寝よ。


ところがいつになく目が冴えて眠れない。


昨日ベッドに潜り込んだのが10時半なので4時間半しっかり眠れたし。


このところチビチビ読んでいるひろさちや著『日本人なら知っていてほしいぶっきょうの常識[座右版]』を読み始めた。


オモチロイ!(©開高健)


興奮してますます眠れなくなり1時間半ほどかかけて最後まで一気に読んでしまった。


宗教っていったい何?


20代の頃から常に頭の隅でモヤモヤしていた「宗教って何なの?」「神って何者?」といった子ども相談室レベルの疑問をユーモラスに的確にこの本で教えてもらったような気がする。


人生の問題に正解なんてない。
正解は自分で作り出すものだ。
正解はあるのではなく、作るものなのだ。


努力主義者は自分が努力して成功したものだから、失敗した人は努力が足りなかったのだと思ってしまうのである。
そこがいけないところなのだ。
努力主義者は、弱者に対する同情に欠ける。
失敗した人、落伍した人に対する思い遣りに欠けるのだ。
努力主義者は狭量なのだ。


悟りも大事だけども、修行だってもっと大事なのである。
修行そのものが大事である修行ー。
釈尊は、それを"中道"と呼ばれたのだと思う。
中道とは、したがって、歩み続けること(修行)そのものが目的なのである。


日本人の「正義」は、相手のことを考えない、ひとりよがりの正義である。


仏教には奇蹟がない。仏教は本質的に「合理の宗教」である。
一般の人々が"奇蹟"と考えているのは、この劇薬・麻薬・特効薬的な信仰であろう。


わたしたちには、自分の大事にしているものがある。
それは財産であったり、生命であったりするが、その大事にしているものへの執着を断ち切
るために、財産や生命を、それを必要としている他者に施すのが布施である。


日本人はーわたしは思うのだがー、どうやら宗教的理想と道徳を混同してしまっているようだ。


誰にでもできないから、それは宗教的理想なのだ。
たいていの人間にできることであれば、そんなものは理想ではない。
「小さな親切」は、誰にでもできるから欺瞞なのだ。
完全な"布施"は、誰にでもできないから理想なのだ。
日本人はそこのところがわからない。
水で薄めた宗教的理想ーつまり、道徳の類しか、日本人にはわからないのだ。



次から次へと過激な文章が襲いかかる。


何とまあ刺激的な宗教の手引き書であることよ。


文章の一部を抜書きして読んでいると、そんなバカな、とか、そんなことはないとも思う。


けれど一気に読んでいる時にはまさに目からウロコが剥がれ落ちる思いだった。


もう一度ゆっくり噛みしめる必要はあるけれど今まで宗教に感じていたモヤモヤが一気に吹っ切れた思いがする


ってなところで、本日は店じまい。
また、明日。


本日の見聞録
・[読了]『日本人なら知っていて欲しい仏教の常識[座右版]』ひろさちや著(講談社)


これほど刺激的な体験も稀!

倍音浴2019年初春
~牧野持侑 in 増上寺 VOL.23~

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